宵闇堂経営記録-不定期営業-

日々起こった出来事から、気になる音楽、ゲーム、漫画に小説まで幅広く。 具体的には東方シリーズ、同人音楽(SoundHorizon、片霧烈火、霜月はるか、茶太、eufonius、etc...)等など

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Category :  読み物
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最近現代文でやった幸田文さんが書いた『濃紺』のお話。読んだことがある人は読んだら楽しいかもしれない。読んだこと無い人は、気が向いたら読めばいいと思います。全部で5000文字くらいです。いつもよりは読む人を意識したつもりですが、覚悟してね。

いきなり書くのはあまりにも不親切なんですっごい大雑把に粗筋なぞ。もう読んだって人は飛ばしてOKですよ。


「きよ」は、張りのある「いい老後」を過ごしていた。ある日、ひょんなことから30年前の記憶が思い起こされる。
19歳の時、きよは既に家計を担っていて、下の二人の弟の学費の為に針子として働いていた。勿論給与は全て母に渡した。
自分の小遣いは勤め先のおかみさんがくれる駄賃だけという、そんなきよの唯一の楽しみが、下駄を買うことだった。せいぜい中の下しか買えないが、喜びに溢れて選んだ。
ある日、行きつけの店で下働きの無口な青年と出会った。青年がきよの好みを1度で覚えてくれ、2度目には馴染み並のサービスをしてくれたことは、買い物の喜びを倍にもした。
数年後、きよも青年も相変わらずだった。ふときよは、いつもの店に見事な女物の下駄があるのに気付き、思わず手にとってしまう。所詮手の届かないものに心を奪われたのはきまり悪かったが、家族分の下駄を新調して満足感があった。
その晩、故郷に帰るという青年が、一足の下駄を持ってやってきた。「この下駄をあなたに履いて貰いたい。くせのある木目で今日の下駄とは比べ物にならないが、その分仕事に手間はかけた。それだけが価値だ」と気負って言う。
その下駄は確かに美しいものだったが、くせがあり、変な感じがした。きよは思う。<くせのある木のいとしさ、くせのある材にたぶん並ならぬ手間をかけたであろうその人の哀しさ、そしてまたくせを贈られた自分は、いったいどういう巡り合せ>なのか、と。それは考えて分かるものでなく<三者ともに通じるのは、不幸せな環境に置かれたとき我慢する能力がある>ということだ、と。
その下駄の鼻緒は最初はえんじ色、二代目にはしそ紫、そして最後に濃紺となった。この次はもう歯継ぎはできないほどに、使い込まれていた。きよは下駄に、そこはかとない執着を感じていた。
30年経って見たくせ下駄は、記憶の中では何か固いイメージがあったのに、今見れば案外に柔らか味があった。きよの心を裏切らず見勝りする姿であった。



話の流れを一切排除して抽出するとこんな感じでしょうか。大事なのは、「きよが決して幸せな境遇に居るわけではない」ということ。そして「その中でも生きる喜びを失わなかったこと」かな。
実際私、3回くらいこれ暇な授業中に読んだんですが、そこまで感動はしませんでした。でも授業で先生の解釈を聞いているうちに、心にすっと入ってきて、気付いたら泣きそうになってました。じゃなきゃたかが国語の教科書の文章にここまで時間かけませんよ。という訳で、書いてみますか。


最初にも書いたとおり、きよの生活は決して楽じゃありません。まず父親が居ません。家の支えとして、20歳にも満たない年で懸命に働きます。普通だったら、文句の1つも言いたくなるでしょう。不満も出てくるでしょう。
しかしきよは、そんな感情とは無関係です。俯いて僻むことなく、上を見て羨むことなく、ただ前を見据えて生きています。そんな中のささやかな若い娘としての楽しみが、下駄を買うこと。精一杯楽しんで、自分に似合うものを探します。勿論、安いものの中から。


青年の生活もまた、楽なものではありません。下働きとして3年間、働きつづけています。どんなに技術があっても上物を扱うことはできず、中級品しか作ることは許されません。更に、親方として自分の店を持つ前に、故郷に帰ってしまいます。時代背景から照らし合わせると、戦争に備えた検査の為に帰った、ととれるそうです。


そして、きよが素晴らしい下駄を見つけた日の夜、故郷へ帰る前日の夜、青年はきよの家を訪ねます。普段は無口な青年です。それが一気に、「下駄を履いてくれ」と頼むのです。しかもその下駄は、土際の部分の、とてもよくない材から作られた、非常に手間のかかるものです。きっときよが店を出てから、一心不乱に作っていたのでしょう。そこには、当然きよへの好意があったでしょう。自分の下駄職人としての証を残したい、という思いもあったかもしれません。とにかく、見かけだけは美しい下駄が、きよの元に残りました。


しかしきよは、その下駄を冷静に分析して、「変な感じ」と評します。歩く当りが柔らかくない、ぱっと見贅沢だから、他人に褒められた時に素直に喜べず、どうしてもあらを話してしまわずにはいられない。はっきり言って、履きはしますが、気に入っていません。でもそこで気付きます。この下駄と、青年と、そして自分とには、ある共通点があると。それこそが<不幸せな環境に置かれたとき我慢する能力がある>ということです。


はっきり言って、最初は意味がわかりませんでした。でも授業の中でその意味が明らかになっていくうちに、これこそが自分の目指す生き方だと思って、動かされてしまったのです。
つまりは、潔い生き方。決して世界の主人公ではない、誰からも注目されない存在。それでもその人その物の人生を一生懸命に生きる姿。この姿に私は、えもいわれぬ感動を覚えるのです。


きよ。家族の為に針子として遊ぶ暇もなく働きつづけます。そしてその結果、しっかり弟二人は進学し、学問に励むことができたのです。しかし、それを褒め、認める人は誰も居ません。
青年。下働きとして技術を高めますが、それを発揮することなく故郷へ帰らざるをえなくなります。その無念たるや、如何ほどのものだったでしょう。そして、好意を持った人に自分の全職人魂をかけた下駄を作っていたときの心境たるや、想像することはできません。しかしそのおかげで、土際の材であったくせ木は、見事な下駄としてきよの元へ届けられたのです。
くせ木。本来は下駄になることすらなかったかもしれないような木材です。しかし彼は土台としてその上の部分を支え、上物の材を産み出す礎となったのです。更に自身もまた、下駄として青年の手によって生まれ変わることができたのです。


非常につらい現状を我慢して得た結果は、文章から読み取れることに関しては、これだけです。成果と呼ぶには、あまりにも小さすぎます。それでも彼らは、例え自己満足であるとしても、それを誇りとして生きていくことができたのです。何故なら、上も下も見ずに、前をしっかり見据えていたから。


最初きよはくせ下駄を貶します。しかし、それ以上に心にかかったのは<くせ木のいとしさ、青年の哀しさ、自分の巡り合せ>です。くせ木の辛さ、ある種のひたむきさに上物の材質には無い「いとしさ」を感じ、青年の孤独な作業、それをせずにはいられない思いとその技術を生かしきれない無念さに「哀しさ」を感じる。つまりは、同じ境遇にあるものとしての共感を、思いがけず感じてしまっている訳です。
そして私もまた、非常に自意識過剰ながら、この文に共感してしまったのです。辛い境遇にありながらも、絶対に前を見据えて進むという、その姿に。


こっからは私の話になりますが、どちらかと言うと私は、トップに立つのが苦手です。それよりは縁の下の力持ちみたいな感じで、上に立つ人を支える立場が好きです。でもこれって、実は非常に苦しい。どんなに頑張っても周りからは認めてもらえず、寧ろ他人の成功を見なければならない。そんな思いをしたのは中学校の時ですかねぇ。副会長として他の人たちが遊んでる中一人で色々資料作ったりしてたけど、結局使われたのは10分程度とか、あとはあれだな。友人の中で相談役やっておきながら、好きな人に好きな人の相談されたりとか。何かみみっちいことですが、当時の自分には実際キツかったんですよ。


そんな感じ。周りからすれば、一見価値はない。でもその人にとってすれば、これ以外に方法は無い。じゃぁそんな、他者から認められず他者を認めなければならない人はどうすればいいかって、自分に卑屈にならずに、潔く生きるしか無いんですよ。他人の華々しい成功を素直に喜んで、「さ、自分も頑張ろう」って、自分は地味な仕事に戻るしかないんです。それこそが、不幸せな境遇における我慢なんじゃないかなと、私は思うのです。


でもこの共感は、決して限られた人にだけ感じうるものではないです。事実、この小説にもその後二人、下駄の価値を見出す人、そして自分の仕事に誇りを持つ職人さんが出てきます。一人目が「俺にしかできないよ」。二人目が「他じゃできまい」って言っているところに、時代の流れを感じますが。
ただ、現代の日本においてこの感覚が素直に受け入れられる人はそんなに多くないんじゃないか…ってのは、先生の言葉です。やっぱり若い時に読んでも分かんなかったと。私はやっぱり精神的に前近代的みたいです。ま、しょうがないですね。


最後に。何故濃紺なのか、何故下駄なのか。
前者は簡単でしょう。プリントにも書いてましたが、えんじ色は若々しさを表す。しそ紫は自分の好きな色に染めることで、下駄に愛着が増す。濃紺は落ち着きのある、深みをました人生、そして精神を表す。
とすれば、2回の下駄の修理はライフステージを表していると言えるのかもしれない。人生における転機を、下駄の鼻緒の色の変化で表している、とかね。

後者。下駄というよりは、「木」の重要性でしょうか。木のイメージとすれば、何となくゴツゴツした固い感じ。実際きよは最初、いきなりの青年の行動に対して身構えてしまいます。青年の突然の好意にどうしていいか戸惑っているとも言えるでしょう。それが、「土も下駄も両方固いという触感」に表されています。この時点では、木もまだ加工されたばっかりで、固さが抜けません。
その後。段々と使っているうちに、下駄は足に馴染んできます。愛着も湧きます。そんな中、下駄と共に生きているうちで辛いこともあったでしょう。そうした時に下駄を贈った青年の、自分と同じ不幸せな生き方。そしてその結果としてある下駄を思い出すことは、どれだけきよの支えになったか分かりません。そうした繰り返しの中で段々と青年の思い出は柔らかい、純粋なものへとなっていき、下駄もまた、履き捨てるのを惜しむほど足を優しく包む物となっていったのです。

そして30年後。下駄は修理を繰り返して軽くなりました。しかしその木肌は、優しいものでした。普通、思い出というものは、時が経つと色褪せてしまうものらしいです。しかし、きよの場合は違いました。
今まで「そこはかとなく執着」で、面と向かって考えてこなかった青年との思い出だからこそ、30年の時を経て丁度受け止められるくらいにまで洗練され、しかも清らかな思い出として残っているのです。まさしく、下駄そのものが青年との思い出。木の持つ特性と、青年の持つ木へ働きかける技術こそが、きよをきよとして生活させ続けたものだったと思うのです。


本当に最後になりますが、私はやっぱりこういう生き方に憧れてしまいます。分をわきまえるというのか、天命を知ると言うのでしょうか。自分に相応しい生き方をしてこそ、真の幸福が訪れると思うのです。背伸びをしても、卑屈になっても駄目。道を外れて幸せを望んでも駄目。どれだけ辛くても、自分の進むべき道を思い描いてしゃんと歩いていけば、必ず収まるべき場所、安らぐ世界が待っていると思うのです。
飽くまで質素に、慎ましく。けれど凛々しく、潔く。こんな生き方ができたら、私は多分世界で10番目くらいに幸せ者になれるでしょう。


そして誰もが、世界で5番目くらいには、幸せになれるんです。
以上。お読みいただきありがとうございました。
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コメント


こんにちは。

「他人の華々しい成功を素直に喜んで、…自分は地味な仕事に戻るしかない」
確かに、こんな経験は僕も多かった気がしますが、そのたびに、不満を持ってしまうこともしばしばでした。

この話は僕の場合授業で扱われませんでしたが、それ以前にどこかで読んだ気がします。それにしたって、僕は当時何とも思わなかったでしょうね。今はなるほどなぁと思いました。僕も共感する生き方ですが、時代背景を考えると、難しい生き方でもあるんだろうなぁ。
2007/06/09 20:14URL  城丸 #-[ 編集]


わざわざコメントまで…ありがとうございますです。

難しい生き方です。ですが、それ故に理想です。あとで思ったのですが、最近の物語の主人公は何かと「不幸せな境遇」に置かれてます。ハリーとか、ローワンとか。でも彼らは、それに我慢してません。どっちかってと上を見て(或いは、強制的に見させられて)しまいます。それが私がハリーをもう読もうとしない理由なのかもしれません。

逆に、されど罪人、に強く惹かれる理由でもあるかな。彼らは、というか彼は、下を向きそうになるけどしっかり前を見てるからなぁ。難しいモンですね。
2007/06/09 23:28URL  Kan #-[ 編集]

お礼
大変役に立ちました
ほんとうにありがとうございました。
2010/03/10 11:18URL  suzu #Na2Yg6cE[ 編集]

承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2010/11/28 16:16  #[ 編集]


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